わたしたちの家庭生活は、家族が分かち合うことによって成り立っています。それぞれの時間やスペースやエネルギーを家族のほかの者たちと分かち合うのです。
幼い子どもたちは、家族のなかで助け合い、協力する経験をとおして分かち合う心を学んでゆきます。たとえば、一つのお風呂を家族はどのように使っているか。おもちゃは、兄弟でどんなふうに分け合っているか。一台の車を家族でどんなふうに使っているか。かぎられた収入源で、家族はどのように助け合って暮らしているか。子どもは一つひとつ学んでゆくのです。
親自身が、人に対して、また子どもに対して分かち合う心を持って接すれば、子どもはその親の姿から学ぶものです。分かち合う心は、言葉で教えるのではなく、親が態度で示すことが大切なのです。
親が厳しく叱りつければ、子どもは言うことをきくかもしれません。しかし、それでは、本当の意味で分かち合う心を教えたことにはならないのです。
分かち合いは赤ちゃん時代から
わが子がわがままな子だと人から悪く言われたくないために、親御さんによっては、子どもを厳しくしつけようとすることがあります。けれども、子どもには、歳相応の発達段階があるのです。幼い子どもが、他人の気持ちを思いやることができるようになるまでには、時間がかかります。他人の気持ちを思いやることは、子どもが成長の全過程をとおして少しずつ学んでいく能力なのです。
赤ちゃんにとって、両親を初めとするこの世のすべては自分の延長です。赤ちゃんには実際、まだ自分と親との区別もつかないのです。自分と母親とを別個の存在として認識できることが、成長の第一歩と言えます。
幼い子どもも、赤ちゃんと五十歩百歩の状態です。幼い子どもは、自分の欲求をその場ですぐに満たそうとするものです。これは、世界中の幼児に共通のことです。どうして自分の子どもだけがこうなんだ、と悩む必要はありません。親の役目は、わがままを言う子どもに、少しずつ分かち合う心を教えてゆくことなのです。
分かち合う心は、なるべく身近なものを使って教えるといいでしょう。子どもがよちよち歩きを始めた頃から、何かを分け与えて見せるのです。
たとえば、
「人参をみんなで分けましょうね。これが、あなたの分。これは、お母さんの分」
あるいは、
「お母さんにクッキー一つ、お父さんにも一つ。あなたにも、はい、一つ」。
こんなふうに言ってみるのもいいでしょう。
もう少し大きくなった子どもは、このような初歩的な分配を卒業します。自分が取る前に人に配ってあげたり、順番を待ったりできるようになるのです。
幼い子どもがまず覚える遊びの形は、遊び相手と横並びになる形です。これを心理学者は「平行遊び」と呼んでいます。子どもは、相手がいることで楽しいとは感じているのですが、二人の間にあまり交流はありません。だいたい二歳半ぐらいになると、本当の意味で二人で遊ぶことができるようになります。これは、子どもが社会性を身につけ始めた大きな証拠です。この時点で、子どもは他人と何かを分かち合うことを学び始めるのです。
二歳半のトマスが、木製のトラック何台かで遊んでいました。すると、同い歳のデーヴィッドがやって来て、一台つかみ取りました。すかさずトマスは奪い返します。たいていは、ここで大人が、仲良くしなさいと割って入ってしまいます。けれども、本当は、このまま放っておいたほうがよいのです。
デーヴィッドにトラックを貸してあげなければ、トマスは、もうデーヴィッドと一緒に遊ぶことはできません。一人ぼっちになったトマスには、だんだんそれが分かってきます。そうしたら、親は、そんなトマスに、「デーヴィッドを誘ってみたら」と言ってみるのです。
でも、トマスにその気がないようだったら、それ以上何も言わずに放っておくべきです。
デーヴィッドには、
「もう少ししたら、トマスはいっしょに遊びたいと言ってくるわよ」
と話して、他の玩具を貸してあげるのです。おもちゃを一緒に使って仲良く遊ぶことを教えるのは大切なことです。しかし、それを子どもに押しつけるのはよくありません。子どもの気持ちを尊重し、自分から一緒に遊びたいという気持ちになるまでそっとしておいたほうがよいのです。
子どもは、興味がわけば、一緒に遊びたくなるものです。トマスに肘鉄を食らったデーヴ ィッドは、動物をたくさん乗せられるノアの方舟のおもちゃで遊び始めました。そんなデーヴィッドを、トマスはちらちら横目で見ています。方舟で遊んでいるデーヴィッドは、とても楽しそうです。トマスは、自分もそのおもちゃで一緒に遊びたくなりました。とうとう自分のトラックを何台かつかんで、デーヴィッドのほうへ行きました。そして、トラックを一台差し出しながら、こう言いました。
「方舟に乗せたら」
一方、デーヴィッドは、
「トラックに乗せたら」
と、シマウマの親子を差し出しました。一人で遊ぶより、二人で遊んだほうが楽しいということが、この二人の子どもには分かったのです。
わたしたち親は、子どもに、本当の意味での分かち合う心を教えたいと思うものです。けれど、子どもの良心だけに頼ることはできません。自分が損をしているという気持ちになってしまったら、分かち合う心は生まれないものです。親は、子どもをそんな気持ちにさせないように、その時々で工夫しなくてはなりません。
四歳のアンディが、仲良しのジェフの家へ遊びに行ったときのことです。おもちゃがあふれた部屋の一隅にジェフはイーゼルを立てて、真っ白な画用紙を広げました。アンディは近寄って言いました。
「ぼくも、お絵描きがしたい」
ジェフは、すかさず絵筆をつかみ取りました。それを見ていたジェフのお母さんは、このままでは喧嘩になると思いました。そこで、ほかの絵筆とひとまわり大きな画用紙とを持ってきました。
「ほら、これを使ったら。これで、いっしょに描けるでしょう」
ジェフもアンディも大喜びです。二人でなら、もっと大きな紙に、ずっとたくさん描けるのです。お母さんのおかげで、二人は、一緒に仲良く遊ぶほうが楽しいということに気づきました。
ほとんどの幼い子どもは、幼稚園に入る前から、所有と貸し借りの観念を身につけてゆきます。自分の物を貸したり人の物を借りたりするとはどういうことであるかが分かるようになるのです。
「これは自分のもの、あれは人のもの。そして、あれはみんなのもの」
こんな所有と非所有の観念が理解できるようになるのです。
「これは、あたしのよ!」「だめ、触らないで!」
子どもはよくこんな叫び声をあげることがありますね。そんなとき、子どもたちは、物を貸したり借りたりするとはどのようなことかを学んでいるのです。
子どもにも他人には絶対貸したくない物があります。それを、親は分かってあげなくてはなりません。たとえば、テディベアやお気に入りのタオルなどは、安心感や心地よさや慰めなどの特別な心理的意味を持つことがあります。それを手にしていれば、子どもは、お母さんの膝の上にいるような安心感を覚えるのです。そういった子どもの大切な宝物を、家族の者は粗末に扱ってはなりません。それをほかの子に貸すように仕向けるのもよくないことです。また、もう大きいんだからとそれを取り上げたり、躾に利用したりするのもいけません。もし、兄弟姉妹や友だちに取られてしまったら、親が取り返してあげるべきです。それを取った子どもに、親は説明しなくてはなりません。これは持ち主の子にとってとても大切なもので、貸し借りはできないのだ、と。
子どもの宝物である「ねんねタオル」や「くまちゃん」が、人手にわたるとしたら、それは洗濯のときだけでしょう。大学生になっても、あるいは一生手放さないケースもけっこう多いものなのです。
「赤ちゃんを返してきて」
妹や弟が生まれると、上の子は、親の愛情をその子と分け合わなくてはならなくなります。上の子は、お母さんを奪われてしまったと感じるかもしれません。けれども、そう思うのも無理のないことです。実際、親は、今までかけていた時間とエネルギーとを二人の子どもに分配しなくてはならなくなるのですから。三人目の妹や弟の誕生には、子どもももう慣れていますから、二番目のときよりは適応しやすくなっているものですが??
最初、四歳のダリルは、弟が生まれるのがとても楽しみでした。早くお兄ちゃんになりたくてわくわくしていました。けれども、実際に弟が家族の一員になってみると、がっかりすることばかりなのです。
「ママは、もうぼくと遊んでくれなくなっちやった」
ダリルはお母さんに言いました。
「そうね、ダリル」
お母さんはため息をつきました。疲れていたのです。
「赤ちゃんが生まれたんだから、しかたないのよ。赤ちゃんがおねんねしたら、いっしょに遊びましょうね」
そうは言っても、育児で疲れているお母さんは本当は昼寝をしたかったのです。ダリルの両親は、弟が生まれる前に、ダリルにいろいろと言ってきかせてはいました。ダリルとだけ過ごす時間を作るようにもしています。親戚や友人たちもダリルの気持ちを察し て、なるべく一緒に遊ぶようにしています。これでダリルはずいぶん慰められました。そうは言っても、今までは一人っ子として愛情を一身に集めていたのです。それが、手のかかる赤ちゃんに奪われてしまった、この状態は、ちっとも変わりません。大人なら、しかたがないと思えます。けれど、まだ幼いダリルにとっては、途方もなく理不尽なことに感じられるのです。こんなとき、子どもは、「赤ちゃんを返してきて」と言ったりします。とてもさみしいのでしょうね。もちろんそんなことはできるはずがありません。しかし、そんな子どもの話にはよく耳を傾けてください。子どもの気持ちを受け止め、その子とだけ過ごす時間を少しでも多く作るように工夫することが、何よりも大切なのです。
子どもと過ごす時間
ほんとうの意味での分かち合いとは、与える行為であり、見返りを期待しない心です。その人のことを思って、その人が必要なものを与えることなのです。そんな時、わたしたちは、多少の犠牲をはらったとしても、損をしたとは思いません。なぜなら、与えることによって、わたしたちは本質的に得ているからなのです。
子どもを育てることは、まさに「与える行為」そのものです。親が子どもに与えるのは、子どもが親を必要としている存在だからです。自分のことを犠牲にしても、親は、まず子どものことを考えます。もし、親が、子どもから見返りを期待したら、必ず裏切られたと感じることでしょう。親が子どもを思う気持ちは、子どもが生まれた瞬間から感じる愛情ゆえのものです。それは決して見返りを期待してのものではありません。
わたしたち親が子どもに与えられる一番のことは、子どものそばにいてあげることです。
一緒にいてあげることが、子どもにはとても大事なことなのです。けれども、それは、そんなに簡単なことではありません。わたしたちはついつい日々の忙しさに追われてしまいます。仕事や家事や夫婦生活や育児の狭間で、「ああ、時間がない」と嘆くものです。シングルペアレント(片親)の場合の忙しさは、もっと深刻です。離婚したあるお父さんは、これからは十一歳の息子と一緒に過ごす時間を作ろうと思いました。
「おまえとお父さんだけになれる時間を作って、何かしよう」
息子は怪訝そうな顔をしました。疑うような眼でお父さんを見ると、冷たく言いました。
「それ、いったいどういうこと?」
失ってしまった時間を取り戻すことはできません。今ある時間を大切にしなければ、何も生まれはしないでしょう。自分にとって何がいちばん大切なのか、わたしたち親はよく考えてみなくてはなりません。
「今は仕事が忙しいからしかたない。仕事が一段落したら、家族と過ごす時間を作るようにしよう」
そんなふうに自分をごまかすことはできます。しかし、子どもをごまかすことはできません。「親はなくとも子は育つ」というのは、ある意味で真実です。たとえば、子どもが大きくなってから、親が、さあ時間ができたと、子どもに向かい合おうとしても、子どもは、もうそんな親を必要とはしなくなっているものです。子どものために時間を作るなら、子どもが小さいころからそうしなくてはならないのです。これは、決して簡単なことではありません。わたしたちは、経済的な理由や出世へのプレッシャーから、ついつい仕事を優先させてしまいます。けれど、子どもはあっという間に大きくなります。一日一日と先のばしにしていたら、手遅れになってしまうのです。
親のほうは、自分は十分子どもと過ごしていると思っていても、子どものほうはそうは感じていない場合もあります。
フランクのお母さんは、教会の児童グループのボランティアとして活躍していました。当時、フランクもこのグループに入っていました。フランクは、そんなお母さんが自慢でした。けれど、フランクがフットボールクラブに入ってから、お母さんとの仲がしっくりいかなくなったのです。フットボールの試合を見に来てほしいのに、お母さんは相変わらず教会の活動に行ってしまうからです。責任感の強いお母さんは、活動を辞められません。それよりももっと大切なことがあるというのに。
「ビリーのお母さんだって見に来てたんだぜ」
フランクは沈んだ声で言いました。
「ビリーは、補欠なのに」
教会の活動をしているかぎり、お母さんはフランクの試合を見に行くことはできません。
フランクは、今の自分をお母さんに見てほしいのです。
わたしたちに与えられた時間とエネルギーはかぎられています。親は、日々成長してゆく子どもに合わせて、ライフスタイルを変えてゆかなくてはなりません。子どもの生活に合わせられる柔軟性が必要です。子どもと歩調を合わせ、子どもが小さいときだけでなく、大きくなってからも、そばにいてあげたいと思うのです。
充実した数分は、どうでもいい一時間より価値がある
子どものそばにいてあげることは大切なことです。けれども、ただ一緒にいればいいかといえば、もちろんそんなことはありません。いやいやながらしかたなくやっているという態度を示せば、子どもにもそれが伝わります。
学校の朝礼で詩の朗読をすることになった九歳のジュリアは、練習するのをお母さんに見てもらいたいと思いました。
「いいわよ」
お母さんは、二つ返事で答えました。
「でも、早くしてね。電話をかけなくちゃならないんだから」
ジュリアは、急き立てられているような気分になりました。そして、だんだん気持ちが沈んできました。ジュリアはこう思ったのです。お母さんはわたしの詩の朗読なんてどうでもいいんだ。電話をかけることの方が大切なんだ。……。
親が喜んで子どもと時間を過ごせば、子どもにはそれが伝わります。一日のうちたとえ数分でも、その子にだけ注意を集中させる時間を必ず作りましょう。そんな親との一時は、子どもにはかけがえのないものなのです。
困っている人を助ける心
困っている人の役に立ちたいと思えるようになれば、子どもは、分かち合いの心をずいぶん学んだことになります。子どもには、学校や教会が主催するサンクスギビングやクリスマスのバザーに参加するチャンスがあります。困っている子どもたちに、自分のおもちゃや食べ物を寄付することの意味が分かると、子どもは、よろこんでバザーに参加します。こういう機会を活用して、分かち合いの心を教えたいものです。
子どもは、進んで自分から積極的に何かをしようという気持になります。親御さんは面倒がらずに、そんな子どもに手を貸してあげてほしいのです。貧しい人々を助けるためにはどうしたらいいか、親に相談する子もいるでしょう。ボランティア活動をしたいと言い出す子、お金を寄付したいと言う子もいるでしょう。子どもには、大きなエネルギーがあるのです。
十一歳のある男の子は、古い毛布を収集し、その収益でホームレスの人々に食べ物と上着を買うことにしました。もちろん、大人も手助けをしました。しかし、このときの活動の中心的な担い手は、この男の子でした。その後も、この男の子は活動を続け、個人ボランティア活動の中心人物になりました。
与えることの喜び
家族が分かち合いの心を持っていれば、子どもは、与えることの大切さと喜びとを日々の暮らしのなかで学んでゆきます。そして十代になるころには、親への感謝の気持ちを持つようになります。
十五歳のセーディのお母さんは、夜中まで単語の勉強を見てあげました。次の日の朝、セーディからの置き手紙がありました。
「お母さん、おそくまで勉強を見てくれてありがとう」
こんな時ほど、わたしたち親が、子どもを持った幸福を感じるときはありません。今までの苦労が報われる思いがします。与える心の大切さを、子どもは学んでくれたのです。これから先の人生でも、この子は、ずっと学び続けることができるでしょう。
見返りを期待せず、愛情のしるしとして人に与えることのできる人--わが子がそんな人に育ってほしいと親は願います。時間やお金や労力を惜しまずに人を助けることのできる人間になってほしいと親なら願うのです。ところが、これはなかなかむずかしいことです。しかし、心の豊かささえあれば、分かち合う喜びを知る人生をおくることも、世の中に貢献することもできるのです。