嫉妬は、英語では「緑色の目をする」と比癒的に表現されます。まさに、そのとおりだと言えるでしょう。嫉妬は、わたしたちがどんな目で他人や物事を見るかによって生まれる感情です。嫉妬深い目には、隣の芝生は青く見え、他人の車は上等に、家は立派に見えます。本当は、自分の庭の芝生は青く、車も家も申し分ないとしてもです。
世の中には、確かに、自分より恵まれている人は大勢います。しかし、自分より恵まれない人も大勢いるのです。この事実のどちらに目を向けるか、それは、わたしたち次第です。もし、親がいつも自分と他人とを引き比べて不満に思い、他人を羨んでばかりいたらどうでしょうか。子どもも、そんな親の影響を受けてしまいます。わたしたちは、子どものためにも、緑色の目の怪物にならないように心がけるべきなのです。子どもが、己の幸福を幸福とし、他人を妬んだり嫉んだりすることがないように、親は教えなくてはなりません。
隣の芝生は青く見える
そもそも、他人と自分とを比べること自体は避けられないことです。実際、自他を比較することなく生きるのは不可能です。自他の違いを認識してこそ、物事を見る目が養われるのです。子どもも、自他の違いに気づくことから、批判能力を育ててゆきます。問題なのは、違いを認めた後、わたしたちがどう思うかなのです。人を羨み、嫉妬してしまうか、そうはならないか、ということなのです。
ある日、庭で子どもたちは遊び、お母さんは土をいじっていました。そこへお父さんが運転するぴかぴかの新車がバックで入ってきました。お母さんはこの色がいいと思っていましたし、子どもたちも大喜びです。新車を買うのは初めてで、本当にすごいことです。お父さんは嬉しくてしかたがありません。
みんな喜んで車の手入れをしました。夏の間、子どもたちは洗車を手伝いました。車に乗るときには、座席を汚さないように靴を脱ぎ、車の中では物を食べないようにしました。
その年の秋、近所の人が、もっとかっこいい新型モデルを買いました。それもお父さんの車よりも安い値段で手に入れたのです。それを知ったお父さんは、顔を曇らせて言いました。
「うちも、あの車にすればよかった。あと二、三ヵ月待っていれば、あれが買えたのに」
お母さんは、慰めて言いました。
「いいじゃないの。みんな、うちの車が気に入ってるんだから」
でも、お父さんは、機嫌を直しませんでした。そして、お母さんには車のことは分からないと言いました。子どもたちは、事情がよく飲み込めませんでしたが、お父さんがもうあまり車を大切にしなくなったのは分かりました。近所の人の新車が車庫から出てくるのを見かけると、お父さんはいつも羨ましそうな顔でじっと見ています。そんなお父さんの気持ちが伝染し、いつの間にか、子どもたちも、うちの車に興味を失い、どうでもいいと思うようになってしまいました。座席でお菓子を食べて粉を散らかしても、もう平気です。車は薄汚れ、本当につまらない車になってしまいました。
お父さんは、自分がいやな気持ちになっただけでなく、家族全員の気持ちも白けさせてしまったのです。そして、お父さんの態度から、娘たちが学んでしまったことはこういうことでした。価値のある物とは、人に見せびらかすことができる物なのだ――。これは、できれば子どもたちには教えたくない価値観です。
自分と他人とを比べても、相手の良さやすばらしさを素直に認めることもできるはずです。お父さんも、近所の人の好運を妬まず、その車をいい車だと素直に認めることができればよかったのです。
親御さんのなかには、他人の子どもに嫉妬する人もいます。子どもを自分自身の一部だと思い、子どもの出来不出来が親の価値を決めると思っているからなのでしょうか。いつも他の子どものことが気になり、競争心を燃やしてしまうのです。誰がいちばん駆け足が速いか、誰がチームの花形か、誰がいちばん勉強ができるか、誰がいちばん可愛いか、誰がいちばん人気があるか、誰がアイビーリーグに行くか……。
ある若いお母さんが、わたしにこんな話をしてくれました。
「わたしの子どもがまだ絵本もろくに読めないときに、他の子どもが難しい児童本をすらすら読んでいたんです。とても妬ましく思いました。わが子がこんなふうになってくれればと思ったのはもちろんです。でも、それだけじゃなく、その子が難しい字に躓いて、読めなくなってしまえばいいと思ったのです。無邪気な四歳の子どもに対して。その時、自分はなんていやな人間なんだろうと、ぞっとしました」
世の中には、常に、わが子より優秀な子、駆け足の速い子、勉強のできる子、器量のいい子がいるものです。いちいち嫉妬していたらきりがありません。それに、こんなことは考え方一つでどうにでもなると思います。わが子にはこれができない、あれができないと欠点ばかりを見ているから、他の子に嫉妬してしまうのです。そんなつまらないことをしていないで、わが子の長所を見るようにすればよいのです。そうすれば、他の子と比較したとしても、すべてはその子の個性なのだと思えるようになるはずです。また、子どもの成功や失敗は、その子自身のものであり、親のものではないのだと肝に銘じることも大切です。子どもの成功や失敗に一喜一憂するのが親というものです。しかし、子どもには子どもの人生があります。自分の叶えられなかった夢を子どもに託して、過剰な思い入れをしないように、いつも気をつけていたいものです。
兄弟姉妹の競争
自分がいちばん親に誉められたいと思うのは、兄弟の間でもよく見られる普通の感情です。だからといって、親がいつも兄弟を比べたり、一人だけ可愛がったりしていたらどうでしょうか。兄弟の間で競争が起こり、大人になってからの兄弟仲にも影を落とすことになってしまうでしょう。これは、不幸なことです。
お母さんは、七歳のシャロンに、「きれいな字を書けるように、もっと練習しなくちゃね」
と言いました。「お姉ちゃんは、字がきれいでしょ。シャロンもあんな字が書けるといいわね」。
シャロンはお姉さんを見ました。お姉さんは、ダイニングテーブルの向かい側で、黙って宿題をやっています。学校の先生も、友だちも、そしてお母さんまで、みんなお姉さんのほうが好きなのです。こんなことになるなんて、シャロンが悪いのか、それともお姉さんの方が悪いのでしょうか――。シャロンは、どうしていいのかわからなくなってしまいました。
「もう、いやだ。こんな鉛筆じゃ書けない。字を書くのなんか、大嫌い!」
シャロンはそう叫ぶと、泣きながら二階へ駆け上がってしまいました。
我が子が親の言葉にこんなふうに過剰反応したときには、親は、自分の言ったことを反省する必要があります。シャロンのお母さんは、どうしてあんなことぐらいで泣きだすのかとあっけにとられました。けれど、このお母さんも、よく考えてみれば、シャロンが泣きだした理由が分かるはずです。姉妹を比べて、妹に酷なことを言ったのだということが理解できるはずです。お母さんは、シャロンの気持ちを考えて、シャロンに謝らなくてはなりません。子どもは、人を許す天才です。親が自分の非を認めた時には特にそうです。このお母さんは、これからはシャロンをお姉さんと比べたりしてはなりません。シャロンの個性を認め、シャロンはシャロンなのだという気持ちで接することが何よりも大切なのです。
実際、親がどんなに気をつけていても、兄弟間の競争はなくならないものです。たとえば、その格好の例として、ケーキを切り分ける時のことを考えてみましょう。五歳の双子のリンダとグレイは、ナイフを持ったお母さんの手を虎視耽々と見つめています。ケーキをきっかり同じ大きさに切るのは不可能です。どうしても、どちらかのほうがちょっと大きくなったり、クリームが多くなったりしてしまいます。こんな、ケーキをめぐる争いは微笑ましいものです。でも、実は、こんなささいな事が積もり積もって「どうせ自分は親に愛されていない……」と、悲しむ子もいることを忘れないでほしいのです。切り分けられたケーキは、親の愛情の象徴なのです。同じ大きさに切ってほしいと言うことで、子どもは、同じだけ愛してほしいと言っているのです。たかがこんなことで……と思わずに、できるだけ子どもの要求を聞き入れ、人を平等に扱うよい手本を示してほしいのです。
人と同じにしたがる年ごろ
「スーザンは髪を染めてるのに、どうしてわたしはいけないの?」
「だって、ミッキーだってあのスニーカー履いてるよ」
「みんなピアスしてるもん。わたしもしたい」
子どもはいくつになっても、他の子どもと同じものを欲しがるものです。それは、服や車だったり、カーリーヘアやストレートヘアだったりするかもしれません。その子と同じ物が手に入れば、その子と同じようになれると思うからなのでしょうか。
「あんな服を着れば、サマンサみたいに人気者になれる」
「新しいユニフォームがあれば、ジェイソンみたいにバスケットがうまくなれる」
何かが上手ならば、あるいは、何かを持っていれば幸せになれる。そんなふうに子どもは思うのかもしれません。誰かみたいに人気者になったり、スポーツマンになれると錯覚しているのかもしれません。けれど、何かがうまいから、何かを持っているからといって幸せになれるわけではありません。わたしたち大人は苦い経験からそれがよく分かっています。
家族よりも友だちにウエートがおかれる年齢になると、子どもは、なんとかして友だちと同じようになろうとします。この時期はまた、子どもが自我に目覚めるころでもあります。世の中での自分の居場所を探し始める時期です。子どもは、友だちと同じになり、グループの一員になることによって安心したいと思うのです。親は、その子の個性が失われてゆくようでがっかりするかもしれません。しかし、子どもは、なんとかして友だちと同じになろうとします。親は、そんな子どもに、友だちと同じである必要はないと言ってやりましょう。人がそれぞれ違うことは大切なことなのだということを、子どもにぜひ教えてあげてください。友だちの真似をせず、自分に自信を持つべきなのです。自分をしっかり持っていれば、子どもは、友だちのことはそんなに気にはならなくなるものです。
もちろん、友だちの影響を受けてはいけないということではありません。尊敬する友だちを持ち、あやかりたいという気持ちになることは、友だちを真似ることとはまったく違います。そんな友だちがいれば、子どもは目標を与えられ、やる気が出ます。良きライバルを得れば、子どもは成長します。相手を尊敬し認めているので、たとえ自分は目標を達することができなかったとしても、相手を妬んだりせず、広い心で結果を受けとめることができるようになります。
キャリーは、本当は自分が陸上部のキャプテンになりたかったのでした。でも、こう素直に言ったのです。
「カルメンがキャプテンになったの。あたしじゃなくて。でも、カルメンならいいキャプテンになれると思う。みんな頑張ってるし、きっと今年は優勝できるわ」
子どもが思春期を迎え、自我に目覚めたときに、子どもを支えるのが親の役目です。この時期、子どもは様々な問題に直面し、自分は何者なのかと悩むようになります。親の役目は、そんな子どもが自分の特性に気づき、それを伸ばすことができるように導くことです。
そのために一番よいのは、日常生活のちょっとした合間に、子どもの話を聞くことです。車に乗っているときや寝る前のひととき、一緒に料理をしている時や庭いじりをしている時など、いつでもよいのです。かえって、こんな何気ないひとときのほうが、子どもも本音を言いやすいのです。大切なことは、先回りしたり、親の考えを押しつけたりしないことです。
子どもの話をじっくり聞くことのほうがずっと大事です。芽ばえ始めた子どもの自立心を挫いてしまわないように、親は、あくまでも子どもの気持ちや考えを尊重すべきなのです。
自分を受け入れることが、子どもを受け入れること
親の務めは、その子の個性を認め、長所を伸ばすことです。その子の欠点ばかりに目を向けていたら、お互いに何もよいことはありません。子どもは、親が思っているような子どもになろうとするのです。なぜなら、子どもというものは、親の評価を受け入れて、自分はそういう子なのだと思い、そのような自己像を形成してゆくからです。
その子が何を望み、どんな悩みを抱えているのか、学校生活や日常生活で何を感じ何を考えているのか、わたしたち大人は、子どもの話に真剣に耳を傾けなければなりません。そうすれば、子どもは自分が大切にされている、認められ愛されていると実感できます。自分は親に丸ごと受け入れられていると感じることができるのです。
また、親自身が自分の欠点も長所もすべてそのまま素直に受け入れている人であれば、子どもはそんな親の姿から様々なことを学ぶことができます。自分の不完全さを受け入れ、己の幸福を幸福とする親の姿が、子どもにとっては何よりの手本になるのです。