子どもが初めて出会う世界は、家庭です。子どもは、家庭生活での両親の姿をとおして、価値観や生き方を学びます。むしろ親が意識していない言動から、子どもは強く影響を受けるのです。
このように、子どもが初めて出会う世界である家庭--それをわたしたち親は、どんな場所にしているでしょうか。子どもにやさしく語りかけているでしょうか。あるがままの子どもを見ているでしょうか。無理に変えようとはしていないでしょうか。子どもを信じ、いい子だと思っているでしょうか。子どもの話に熱心に耳を傾けているでしょうか。
子どもを誉め、励まし、認めれば、家庭は温かな場となります。子どもが失敗しても許し、欠点も受け入れることです。子どもを理解し、思いやる気持ちが大切なのです。厳しくしつけなくてはならないときでも、頭ごなしに叱りつけたり、無理やり従わせたりしてはいけません。子どもを信じ、支えることが大切なのです。
子どもが成人して家庭を持ったとき、手本とするのは、自分の生まれ育った家庭です。わたしたち親は、子どもとの間に深い絆を築いてゆきたいものです。そんな絆があれば、子どもが成人して家庭を持ってからはなおさらのこと、祝祭日の家族の集まりに喜んでやって来るでしょう。人と人とのつながりに喜びを感じる人間になるはずです。
家族はもちつもたれつ
わたしたちは普通、日々、家族がどんなふうに助け合って暮らしているかをあまり意識することはありません。家庭内の助け合いは、家庭外で人とどのように協力してゆくかの基礎となります。親が子どもの手本となるのと同じように、家庭は社会生活の手本となります。
子どもが家庭生活で経験することは、友人関係や学校生活で生かされるのです。洗面所、テレビ、車などを家族でどのように分かち合って使っているか。そのようなことをとおして、子どもは、人との協力や責任というものを学んでゆきます。
感謝祭のご馳走を食べ終わり、みんなで片づけを始めたときのことでした。皿洗い機の中の食器を片づけておくのは、九歳のジョーイの仕事でした。でも、ジョーイはうきうきしていて、すっかり忘れていました。それで、家族みんなが大迷惑です。食卓を片づけていた十一歳のクリスティンは、食器を皿洗い機に入れられないので、台所のカウンターの上に積み上げました。それで、残った七面鳥を冷蔵庫に入れようとしていたお母さんは、作業をするスペースがなくなってしまいました。ルーシーおばさんは、流しでポットを洗い始めています。七面鳥は固くなってしまうし、台所はパニック状態です。食後のコーヒーを入れたお父さんは、カップを探しています。でも、カップはまだ皿洗い機の中なのです……。
お母さんは、パニックの原因に気づきました。食堂にいるジョーイに大きな声で言いました。
「ジョーイ、すぐ来て、食器を片づけて。もう大変なんだから」
ジョーイは、はっとして、食卓から飛び上がりました。よりによって、今日にかぎって……。
ジョーイは、すぐに皿洗い機の中を、お姉さんに手伝ってもらいながら片づけました。こうして、台所のパニックはやっと収まりました。
ジョーイは、自分がついうっかりしたばかりに、みんながどんなに迷惑するかがよく分かったと思います。これは、極端な例に思えるかもしれません。が、家族というものは一人一人が助け合って暮らしているのです。それが十分分かっていれば、子どもは、外の世界での人間関係でも、人を助け、協力できるようになります。人と力を合わせ、和を重んじることができれば、子どもは友だちや近所の人々からも好かれ、楽しく暮らしてゆくことができます。
親戚や友だち
家族の形態は変わりつつあります。母親と父親の両方そろっている家庭が当たり前というのは、もはや過去の話です。親は一人だけの子、お祖母さんや親戚の人に育てられている子、あるいは母親と父親が二人いる子など、家族の形態は様々です。しかし、たとえ誰に育てられようとも、子どもにとっていちばん大切なことは、かけがえのない存在として愛されることなのです。
子どもを愛してくれる人は、親だけではなく、親戚縁者にもいます。親は全能ではありません。かわいがってくれる親戚縁者がいれば、子どもの世界は広がり、何かとプラスになるでしょう。
九歳のジミーは、プラモデルの飛行機がうまく作れなくていらいらしています。誰か手伝ってくれないでしょうか。残念なことに、お父さんはほかのことで手がふさがっています。それに、実はプラモデルが好きではありません。でも、お祖父ちゃんはプラモデルが好きだし、何よりも孫と遊ぶのが大好きです。
一緒に遊んでもらうことで、子どもは、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんの愛情を感じます。そして、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんでなければ教えてもらえないことを学ぶのです。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんは、自分の子どもにしてやれなかったことも、時間が自由になる今なら孫にはしてやることができます。若い頃は仕事中心だった人も、老後は家族を第一に考えるようになるものです。
わたしが主催している祖父母のための子育て教室では、よく年配の婦人から、こんな後悔の言葉を聞きます。
「自分が母親だったとき、もっと子どもと遊んであげればよかった。あんなに忙しくしてい
ないで……」
子どもと一緒に遊んで絆を深めることが、家族全体の絆を深めることにつながるのだ--そのことにこの婦人は今になってみて気づいたのでしょう。
かわいがってくれる親戚の人々も、子どもの強い味方です。
デール伯母さんは、十二歳の姪のミーガンを学校に迎えに行って、驚かせることがあります。デール伯母さんは、ミーガンにアイスクリームやココアをおごってくれたりもします。友だちと一緒に近くのプールに連れていってくれることもあります。わざわざミュージカルを見に遠くの街まで連れていってくれたこともありました。思春期のミーガンは、友だちとのことで悩むことがあります。そんなとき、親にはあまり言いたくないことでも、デール伯母さんになら相談できます。伯母さんはいつも親身になって話を聞いてくれます。デール伯母さんは、ミーガンにとって大切な「家族」の一人なのです。こんな姪思いの伯母さんがいてくれることは、ミーガンの両親にとっても心強いことに違いありません。
親戚が近くにいなかったり、いても、あいにく疎遠になっていたとしても、わたしたちには友だちがいるものです。わたしの主催するあるセミナーで、こんな話をしてくれた女性がいました。
「母親が亡くなってから、母親の友だちが、よく遊びにきてくれるようになりました。この方は、お孫さんがいなかったので、わたしの生まれたばかりの娘のことを、とてもかわいがってくれました。わたしには、この方は亡くなった母のように感じられ、感謝しています。娘が大きくなるまで、ずっとこの方は娘の『お祖母ちゃん』でした」
親戚や友だちといった家族以外の結びつきがあると、子どもの世界は広がります。子どもは、よい刺激を受け、楽しいことも増えます。親以外にも支えてくれる人がいるのだということを実感し、心強く感じるのです。かわいがってくれる大人の存在が多ければ多いほど、学ぶことや見習うことが多く、子どもの世界は豊かになるのです。
親族の集まり
お祝いや年中行事の際の親族の集まりは、子どもにとってとても大切です。一族が集まった席で、子どもたちは一緒に遊びます。大人たちは、なんて大きくなったんだろう、なんてお利口になったんだろう、なんてきれいになったんだろう、なんて逞しくなったんだろうと、子どもたちの姿を見て口々に驚きの声をあげたりします。そんな時、子どもは照れたり、恥ずかしそうにしたりしますが、自分が愛され、大切に思われているということを感じているのです。すぐ遊びに立ってしまったとしても……。
子どもは、大きくなってからも、一族の集まりに参加することで、親族の絆を感じます。親族との絆は、将来独り立ちするときの心の支えになります。一族の集まりは、一つの儀式であり、自分たちの出自を知り、先祖からの繋がりを祝い、昔話を語るときなのです。 子どもは、親の子ども時代の話を聞くのが好きなものです。親の知られざる一面を垣間見、過去を理解します。自分の親もかつては子どもだったように、今子どもである自分もいずれは親になるのだということを認識するのです。
また、親族の祝いの席で、子どもは、親の意外な一面を発見することがあります。親がこんなことをするなんてと子どもはびっくりし、わくわくします。たとえば、裸足になって昔の曲に合わせて夜中まで踊りまくる親の姿を見て、子どもは驚くでしょう。そんな羽目を外した姿も、お祝いの席では許されるのです。
親族の祝いの席からの帰り道、ビリーはお父さんにこう尋ねました。
「お父さん、知ってた? お父さんは、マイクの大好きな伯父さんなんだよね」
お父さんは、微笑んで答えました。
「うん、そうみたいだね」
「ああ! ぼく、全然知らなかったよ」
ビリーは、お父さんのことを改めて尊敬したのです。仲良しの従兄がお父さんのことを大好きなのだということを知って。
また、親族の集まりの席に参加することで、子どもは、時が流れ、自分が成長しているのだと実感します。それが例年の行事であればなおさらのことです。わたしたちはよく写真を撮ります。子どもは、そんな写真を見て、自分が一年の間にどんなに大きくなったかを知ることができます。前の世代が撮った家族写真に似せて、同じ構図で自分たちの世代の写真を撮ってみるのも一興でしょう。昔の写真と比べてみると楽しいものです。
親族の集まりは、一族の儀式を行なうときでもあります。わたしの親族の集まりでは、食卓を囲んで手をつなぎ、来られなかった者たちのためにキャンドルを灯します。そのともしびのもと、静かに祈るのです。
毎日が楽しい日
祝祭日ではない普通の日でも、お祭り気分を楽しむことができます。つまらない日常も、気分を変えれば特別な日になります。
冬休みも終わりに近づいたころのことです。お母さんは、自分の四人の子どもと、遊びに来ている従兄とが、一緒に何か楽しく遊べることはないだろうかと考えていました。子どもたちは、新しいおもちゃにも飽きていました。それに、悪天候で外へも行けず、退屈しきっていたのです。
「いいこと考えた」
ある晩、お母さんは言いました。
「ビーチパーティーを開きましょう」
四歳から十一歳までの子どもたちは、お母さんの言葉に耳を疑いました。
「嘘でしょう」
いちばん上の子が言いました。
「本当よ。どうするか計画を立てましょう」
お母さんは、そう答えると、何を食べるか、何を持って行くかのリストを作り始めました。
「でも、外は死ぬほど寒いよ」
一人が反論しました。お母さんは答えました。
「家のなかでやるのよ。ランプをつけて、日焼けするの」
子どもたちは、すっかりその気になりました。何を着ていくか、どんなおもちゃを持っていくか、どんなCDを聴くか、そしてもちろん、何を食べたいか、口々に相談し始めました。お母さんは、ホットドックとサモール(マシュマロの焼き菓子)を持ってゆく約束をしました。
翌日は、とても寒い日でした。お母さんはヒーターをつけ、お父さんは暖炉に薪をくべました。みんなでテーブルやソファを部屋の隅に片づけ、ビーチマットを敷いてアイスクーラーを置きました。お父さんはビーチパラソルを広げ、ビーチボールを膨らませ、ビーチボーイズのCDをかけました。準備完了です。子どもたちは、はしゃぎながら水着に着替え、サングラスをかけ、甘い香りのする日焼けローションをたっぷり塗りました。
ハンガーを焼き串にして、食べ物を焼きました。子どもたちは笑いながら遊び興じています。こんな「ビーチパーティー」も終わると、子どもたちは、家に帰ってきて、その日がどんなに特別な一日だったかを語り合いました。十一歳の子は言いました。
「めちゃくちゃ楽しかった」
いちばん下の子も言いました。
「明日もやりたい!」
家族と一緒に楽しいことができるのは大事なことです。いつも家族以外のところにしか楽しみを求められないようでは困ってしまいます。笑い声の絶えない家庭なら、子どもは、いくつになっても、家族と共に過ごす時間を大切にするものなのです。
未来へ向かって
わたしたちが大人になってから思い出す家庭の姿は、何げない日常の暮らしの光景です。将来、子どもの恋愛や結婚や家庭生活に影響するのは、そんな日々の生活の体験なのです。
親としていちばん大切なことは、子どもに何を言うかではありません。また、心の中で何を思っているかでもありません。子どもと一緒に何をするか、なのです。 親の価値観は、行動によって子どもに伝わるのです。毎日の暮らしのなかで、親がどんなふうに子どもに接し、どんな生き方をしているか。それが子どもの生涯の手本となり、子ども自身が親になったとき、ものを言うのです。親が愛情をもって子どもを育てれば、その愛の行為は、世代から世代へと確実に受け継がれてゆきます。
子どもを励まし、許し、誉めること。子どもを受け止め、肯定し、認めること。誠実とやさしさと思いやりを身をもって示すこと--それが親の役目です。子どもは誰の子であろうとも、皆、このような親を必要としているのです。
子どもは皆、すばらしい存在です。隣の子どもも、隣町の子どもも、遠くの国の子どもも。そのすばらしさをどのように伸ばすかは、わたしたち大人次第なのです。子どもたちは皆、わたしたちの未来を背負った、わたしたちすべての子どもなのです。戦争や飢餓や差別を少しでも減らすことのできる未来--地球上のすべての人々が人間という家族になれる未来。そんな未来を子どもたちに授けることができるように、わたしたちは、できるだけのことをしたいと思います。
わたしたち大人が子どもを導けば、子どもは、この世の中はいいところだ、自分も頑張って生きていこうと思えるようになるのです。