子どもは、怖いことが大好きです。怖い話、怖い映画にわくわくドキドキ胸をときめかせます。お化けごっこも大好きです。
わたし自身思い出すのは、小学生のころのことです。毎週金曜の晩に、近所の家に集まって、部屋の明かりを消し、ラジオの怖い話を聴いたものでした。それは「魔女の物語」という番組で、題名からしてレトロですが、当時は本当に恐ろしいものでした。なんといっても一番怖かったのは(そして、一番楽しかったのは)、番組が終わって、みんなで家へ帰るときでした。暗い夜道を平気なふりをして歩いてゆくのです。暗がりから何が飛び出してくるかと思うと、死ぬほど怖かったものです。もちろんそれがこの上なく楽しかったのは言うまでもありません。でも、こんなふうに恐怖を楽しめたのは、明るい灯の点ったわが家に帰りつけるという安心感があったからこそなのです。
本物の恐怖は、これとはまったく違います。親から受ける暴力、虐待や無関心、生死にかかわる病、あるいは身近な人から受けるいじめなど、子どもにとっては実に恐ろしい体験です。くる日もくる日もそんな恐怖を感じていたら、子どもはおどおどし、いつも不安な気持ちでいることになります。安心できる環境が整っていなければ、子どもの健全な成長は望めません。このような子どもは、人ともうまくつきあえなくなり、何事においても消極的になってしまいます。
子どもは何を怖がるか
どうしてそんなことが怖いのかと、大人は子どもの気持ちを理解できないことがあります。大人にとっては何でもないことが、たとえば隣の犬や楓の枯れ枝など、子どもには死ぬほど怖いことがあります。また、なんでもない大人の一言に驚いてしまうこともあるでしょう。ある三歳の女の子が、お母さんにこう尋ねたそうです。
「ほんとに、ママは、骨が折れちやったの? キャシー叔母さんにそう言ったでしょう」
子どもは、言葉を文字どおりに受け取ってしまうことがあるものです。この女の子は、「骨が折れる」の本当の意味を教えてもらって、やっと安心しました。
子どもが怖いと言ったときには、親はばかばかしいと思わずに、真剣に耳を傾けたいものです。怖いと思っている子ども本人にとって、恐怖は現実そのものなのです。わたしたち大人は、子どもの目で物事を見るように心がけたいと思います。「なに言ってるの」「なんでもないわよ」「弱虫だね」「もう大きいんだろう」などと適当にあしらってはいけません。そんなことを言われたら、子どもは、ますます怯えてしまいます。
わたしは、子育て教室で、親御さんからこんな質問をよく受けます。
「親の関心を引きたくて、怖いと言っているだけなのではないでしょうか」
そんなことはありません。こういう親御さんたちは、子どもの言うことを聞き入れすぎると、その結果子どもを甘やかすことになるのではないかと心配しておられるのでしょう。けれども、そのような心配は無用です。たとえ、親に甘えたくて怖いふりをしているとしても、その「甘えたい」という欲求は満たされなくてはならないのです。このような欲求は、子どもが食べ物や住む場所を必要としているのと同じように、基本的な欲求なのです。実際、子どもが親に甘えたい時というのは、何かに怯えているときである場合が多いのです。
三歳のアダムがそうでした。家族は新しい家に引っ越したばかりで、アダムは幼稚園に入園したばかりでした。妹も生まれました。お父さんとお母さんにとっては、すばらしい新生活のスタートです。でも、アダムにとっては、馴れ親しんだかつての生活が終わってしまっただけのことだったのです。新しい生活は不安でいっぱいです。
お母さんが留守のある晩、アダムはいつもに似ず、お父さんにこんなことを言いました。
「ぼく、怖い。パパ、なんとかして」
そして、泣きだしました。
「なんとかしてって……。どうしたの? もうお兄ちゃんなんだから、そんなこと言っちゃだめだよ」。お父さんは、こう言って、アダムを早く寝るように部屋へ行かせることもできました。
けれども、お父さんは、そうはしなかったのです。お父さんは、アダムにこう言いました。
「どうしたの? 大丈夫だよ。今日は、お父さんといっしょに寝ようね。そうすれば怖くないだろう」
お父さんの言葉とスキンシップで、アダムは気持ちが落ちつき、不安も和らぎました。
親は子どもにとって魔法のように頼もしい存在です。六歳と八歳の兄弟は、屋根裏にお化けが出るんじゃないかと怖くなることがよくありました。お母さんは、そんな時のためにクローゼットの中に古い箒をしまっておきました。二人が「お化けだ、お化けだ!」と叫びながら部屋に飛び込んできた時には、お母さんは箒を取り出し、それを振り回しながら、声を張り上げて家中を走り回ります。二人の男の子も、お母さんの後をついて一緒に走り、お化け退治に大はしゃぎです。
親の離婚
もちろん、こんな魔法が効かない時もあります。箒のお呪いも、やさしいスキンシップも、その効力を失ってしまうような家庭内の大事件が起こることがあります。そのような事件が起きて、今までの生活様式ががらりと変わってしまったとしたら、それは子どもには、とても堪え難いことです。子どもの成長には安定した日常生活が不可欠です。そんな日常生活が崩れてしまう出来事が起こると、子どもは、世界が崩壊したように感じてしまうのです。
親に死に別れるという悲劇は別としても、両親の離婚は、子どもにとって最も辛い事件となります。子どもというものは、いつも心のどこかで、もし両親が離婚したらどうしようと思っています。親が配偶者の悪口を言うのを聞くと、子どもは不安になります。親が離婚したら自分は捨てられるのではないかと思うからです。子どもにとっては、親が家を出ていくということは、自分が見捨てられるということを意味しているのです。
両親の離婚調停中には、子どもはきわめて不安定な精神状態になります。この時期、親は、どんなに余裕がなかろうとも、何よりも子どものことを優先すべきです。子どもは、両親の離婚に心が引き裂かれる思いをしています。ですから、争いにはできるだけ早く終止符を打ってほしいのです。確かに、双方が対立し憎み合っている状況では、子どものことを優先させるのは、簡単なことではないでしょう。しかし、この時期の子どもには特に親の心づかいが必要なのです。離婚をしても親が親であることにはかわりはない、これから先も両親二人で面倒をみてゆくということを、子どもにきちんと伝えなくてはなりません。
子どもは、その意味をはっきりとは理解できなくても、家庭内に何か事件が起これば、それを察します。
お父さんが失業するかもしれないという話を耳にした六歳のリンは、怯えてしまいました。お父さんはリンに説明しました。
「心配しなくてもいいんだよ。しばらくは節約しなくちゃいけないけどね。でも、大丈夫だよ」
リンは安心して、自分にもできることをしようと思いました。
「新しいスニーカーはいらない。まだ古いのがはけるから」
リンは言いました。
心配のしすぎは子どもに悪影響を与える
親の心配性は気づかぬうちに子どもにも伝染します。「どうしよう」「困ったな」などという言葉をわたしたちはよく口にしますが、このような言葉は、子どもの心をとても暗くします。だめだ、だめだと思っていると、本当にだめになってしまうものなのです。
不幸なことに、最近の親御さんたちは、昔では考えられないほど心配の種をかかえています。子どもをいたずらに不安がらせることなく、いかに危険から守ってゆくかは、親御さんにとって頭の痛い問題です。たとえば、外で知らない人に声をかけられたら十分気をつけなさいと親なら子どもに教えたいところです。けれど、だからといって、知らない人がみんな悪い人だとは教えたくはありません。また、できれば親の目の届くところで遊んでいてほしいと思います。とはいっても、親にべったりの子になってもらいたいとは思いません。わたしたち親は、子どもの自主性を伸ばし、なおかつ危険にさらされることがないように気をくばらなくてはならないのです。
しかし、これは頭の痛い問題です。子どもにどれだけ自由を許すかは、子どもの年齢に合わせて考えなくてはなりません。お母さんは、四歳のアリソンに、公園に行きたいといわれました。公園には知らない人もいるので、お母さんはこう答えました。
「お母さんと一緒に行きましょうね。見ていてあげるわ」
お父さんとお母さんは、十歳のケンに学校まで一人で歩いて行きたいと言われました。二人は、ケンを街中に一人で出すのは心配でした。けれども、一人で行きたいという自立心の芽は伸ばしてやりたいとも思い、悩みました。
親というものは、わが子のことを自分のこと以上に心配するものです。けれど、それもいきすぎると、子どもに悪影響を及ぼします。
キャルのお父さんは野球狂です。そんなお父さんに、お母さんもリトル・リーグの監督も少々閉口していました。お父さんは、どんなにキャルのことで気をもんでいるか、わたしにこう語りました。
「ぼくは、キャルぐらいのとき、あまり野球がうまくなくて、レギュラーになれなかったんです。本当にみじめでした。キャルには、絶対、あんな思いはさせたくないんです」
しかし、キャルにはキャルのやりかたがあります。お父さんの過剰な思い入れは、キャルにとっては重荷になっているかもしれません。お父さんは、息子のやりたいようにさせたほうがいいのです。子どもは、親とは違います。子どもには子どもの人生があります。親の心配がマイナスになることもあります。それを忘れないでほしいのです。
子どもの話に耳を傾ける
わたしたち親は、子どもの生活をすべて把握しているわけではありません。子どもを悩ませる出来事が毎日のように起こっていたとしても、親はまったく知らないという場合さえあります。学校でのいじめはもちろんのこと、家庭内での兄弟同士の争いも、親はときには見過ごしてしまうことがあります。わが子がいじめを受けたり、脅されたり、からかわれたりしていても、親はまったく気づかないこともあるのです。幼い子どもの場合は、特にその傾向が強いようです。幼い子どもは、ただ怯えてしまって、親に訴えられないことがありますし、誰にも言わずに一人で我慢してしまう子もいるからです。親は、時間を割いて、子どもの人間関係についてよく話を聞くように心がけたいものです。
お母さんは、五歳の息子のアンドリューに、さり気なく話しかけました。
「今日は、幼稚園でどんなことがあったの?」(「幼稚園どうだった?」と聞くよりも、このほうが、子どもは具体的に話しやすくなります)。
「ジョーに、トラックを取られちやったんだ。ぼくが遊んでたのに」
「そう。それで、どうしたの?」
アンドリューはうつむき、口ごもりました。
「べつに」
お母さんには、トラックを横取りされたのだということが分かりました。それで、こう尋ねてみることにしました。
「そう。いやだったでしょう。アンドリューは、どうすればよかったのかな?」
お母さんは、こう質問して、アンドリュー自身に考えさせたいと思ったのです。
アンドリューは、考えました。そして、トラックを取り返す、先生に言う、ほかのおもちゃで遊ぶ、ほかの友だちのところへ行く、などと答えました。
「そういう時は、こうしなさい」とお母さんが教える必要は少しもありません。子どもの言うことを親がよく聞けば、子どもは自分で考えるからです。
「アンドリューは、本当はどうだったら一番よかったの?」。こんなふうに尋ねてみるのもよいでしょう。
アンドリューは、「トラックで遊びたかった」と答えるかもしれません。子どもは、自分がやりたいことがはっきりすれば、今後どうすればよいかもわかるものです。
「明日、幼稚園に行ったら、ぼくが一番にトラックを取って、ジョーが取ろうとしたら、ダメだって言ってやる」
子どもにとって、新しい体験は不安なものです。入園・入学、初めての歯医者、初めて飛行機に乗る経験――どれも、子どもにとっては大変なことです。親は、そんなときには、いつもよりやさしく接し、子どもを励ましましょう。「あなたならできる」と、子どもに自信を持たせるのです。「あなたなら大丈夫よ。できるわよ」と言ってやれば、子どもは緊張がほぐれ、表情も変わってきます。
幼い子どもには、たとえば入園する幼稚園の下見に連れて行くなど、工夫が必要です。
教室のなかを見て回った後、お母さんは娘に聞いてみました。
「このお教室で、なにがいちばんやりたい?」
「金魚にエサをあげたい」
サンデイはすぐに答えました。もう、すっかりここの園児になった気分です。
大人からすれば何でもないことであっても、子どもにとっては刺激が強すぎることが日常生活のなかにはたくさんあります。テレビも、子どもの不安をかきたてます。テレビの画面には、ニュース、映画、コマーシャル、ドラマなど、日々暴力的な場面が流れています。特に、幼い子どもは、現実とフィクションの区別がつかないものです。親はいつも心を配っていなくてはなりません。テレビの画面に映しだされる事故や暴力や殺人シーンにショックを受け、心に傷を負う子もいます。暴力的な番組からいかに子どもを守ればよいのか――それは、その子に応じて、親が考えなくてはならない問題です。
親だって怖いときがある
わたしたちは、子どものために、強い親でありたいと願っています。子どもがいつでも頼れる存在でありたいと思うものです。けれども、ときには、わたしたち親も『オズの魔法使い』に出てくる臆病者のライオンのような気持ちになることがあります。そういう時には、虚勢を張らないようにするのが一番なのです。人間なら誰でも、不安な気持ちになることがあるものです。大切なのは、その不安をどう表現するかです。親の正直な姿を見れば、子どもは、人間というものは不完全なものなのだ、時には人の支えや励ましが必要なのだということを学ぶようになるのです。子どもの小さな手で、大丈夫だよと肩をたたいてもらうと、わたしたち親自身、本当に慰められるものです。
八歳のフォーブは、お母さんは今日病院へ行かなければならず、それで気が沈んでいるのだということを察していました。もちろん、大人ではないフォーブには、お母さんの病気がどれほど深刻なのかは、よくわかりません。でも、朝、学校へ行く前に、いつものようにフォーブを抱き寄せたお母さんを、ぎゅっと抱きしめ返したのはフォーブの方でした。お母さんはびっくりして言いました。
「ありがとう、フォーブ。心配してくれて」
子どもは、不安にどう打ち勝ったらよいのかを、親の姿から学びます。わたしたち親が、どんなふうに配偶者や友だちや親族に支えを求めているか、また、どんなふうに人を支えているか。その姿から、学ぶのです。不安な気持ちとどのように向き合い、どのような解決策を見出していくのか。子どもは、親の姿を手本とし、少しずつ学んでゆくのです。