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子どもの事故防護活動 --- 子どもが育つ魔法の言葉

4. 「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる

わたしたちは、時には、自分はなんてかわいそうなんだろうとみじめな気持ちになることがあります。そして、自分をかわいそうだと思えば思うほど、ますますみじめな気持ちになり、泥沼にはまり込んでしまうのです。
こんな気持ちでいたのでは、何事もうまくはゆかないものです。子どもに対しても同じことが言えます。子どものことを何かにつけて「かわいそうだ」と言ったり、親自身が自分のことをみじめに思っていたとしたら、どうなるでしょうか。子どももその通りだと思ってしまうようになります。自分はかわいそうな子なんだ、親もみじめな人なのだと思ってしまうのです。これでは、子どもにやる気がおこるはずがありません。努力の大切さを教えることもできないでしょう。子どもは何事にも消極的になり、自分は何をしてもだめなんだと思い込むようになってしまいます。
では、やる気のある子、努力を惜しまない子に育てるにはどうしたらいいのでしょうか。
それには、まず、親自身が手本になることです。手本といっても、完壁な手本になる必要はありません。何があってもいっさい弱音を吐かないような強靭な精神の持ち主になる必要はないのです。逆境に陥ったとき、挫けずに立ち向かうことができれば十分なのです。
それから、子どもを信じることが大切です。辛いことがあってもこの子なら乗り越えられると、子どもを信じてください。

みじめな気持ちになってしまったら

 わたしたちは誰でも、みじめな気持ちになって弱音を吐いてしまうことがあるものです。
仕事で疲れている時、誰も自分を認めてはくれないと感じる時などは特にそうです。誰にでも、どうして自分だけがこんな目に遭わなくてはならないのかと思うときがあるものです。
しかし、いつまでもこんな暗い気持ちでいると、うつ状態になってしまいます。ものごとをすべて悪く解釈し、ますますみじめになるという悪循環に陥ってしまうのです。
こんな悪循環に陥らないためにはどうすればよいのでしょうか。もうそれ以上いやなことを考えないように気持ちを切り替えることです。たとえば、自転車に乗って汗をかく、外を速足で歩くなど、何か他のことを始めるのです。
どこか素敵なところを旅している自分の姿を思い浮かべるなどのイメージ療法を試してみるのもいいかもしれません。わたしの子育て教室に来ていたケイトというお母さんは、こんな話をしてくれました。
「わたしは、とても落ち込んでいました。まるで自分は古雑巾みたいだと思いました。利用されているだけで、誰もわたしのありがたみを感じてはくれないと思っていたのです。三人の子どもは本当に手がかかり、夫は仕事ばかりでろくに口もきいてくれませんでした。 わたしはいつもイライラして憂鬱でした。そんな自分が我ながらいやでした。それで、この子育て教室でやったように、イメージ療法を試してみることにしたのです。 目をつぶると、最初に浮かんできたのは、わたしは誉められたいのだ、という思いでした。それで、大きなホールで満場の人々から拍手喝采を受けている自分の姿をイメージしました。実際に、自分で拍手して、子どもの頃に歌った唄を思い出して『二、四、六、八、偉い人はだれ?』『それは、ケイト!』と言ってみました。台所の壁に向かって叫んだのです。『もっと夫にかまってほしかったし、子どもにもありがたみを感じてほしかった……』。少しは気にかけてもらいたかったのです。それで、わたしは、みんなの好物のデザートを焼いて、サイドボードの上に置き、こんなメッセージを書きました。『お母さんは、すごい。賛成の人は、お母さんを抱きしめてください』。すると、家族のみんなが、『どうしたの?』と寄ってきました。子どもたちは、わたしを抱きしめてくれました。夫は、子どもたちを伯母に預けて、二人きりで週末を過ごす計画を立ててくれました。ちょっとした思いつきで、わたしは、ずいぶん明るい気持ちになることができたのです」
家族に対する不満を、このお母さんはこんな風に伝えたのです。これなら、子どもにとってもよい手本になります。また、このお母さんは、夫婦二人きりで過ごす時間を作ることができました。夫婦関係をリフレッシュする時間を作るのは大切なことです。夫婦仲が良いことは、子どもにとっても良いことなのですから。

「お母さんがあなたぐらいの時には……」

自分の子ども時代に比べて、わが子はなんて恵まれているのだろうと、わたしたちはつい小言を言いたくなることがあります。しかし、それはあまりよいことではありません。
十一歳のジュディスには、お母さんの小言がいつ始まるかが分かります。お母さんは、まず、自分がジュディスぐらいの時にどんな生活を送っていたかという話から始めるのです。
そして、ジュディスがどんなに恵まれているか、いかに親のありがたみが分かっていないかということをくどくどと言い始めます。お母さんの小言は、いつも車のなかで始まるので、ジュディスには逃げ場がありません。お母さんは、いつも決まって、こんなふうに切り出します。
「今の子は、本当に賛沢だわ。百ドルもするスニーカーを履いて、それで当たり前だと思ってるんだから」
ジュディスは、また始まったとうんざりします。けれど、ただ「ふうん」と言っておきます。
「お母さんがあなたぐらいの時には、週に三日も、それに土曜日もベビーシッターのアルバイトをしてたのよ。友だちと遊びほうけている暇なんかなかったんだから」
ジュディスは、ため息をついて、こう言い返したくなります。
「ママ、あたし、友だちと遊びほうけてなんかいないわ」
そして、一拍おいてから、こうつけ加えます。
「ママの時代とは、違うのよ」
こんなふうにして、この娘と母親は、どちらのほうが苦労しているかの競争を始めることになります。
お母さんは、そんな競争をするつもりではなかったはずです。ただ、娘に、今の生活のありがたみを知ってほしかっただけに違いありません。けれど、このお母さんの言葉の裏には、「なに不自由のない娘の生活が妬ましい」という思いがありました。「少しは親に感謝しろ」という押しつけがましさがあったのです。ですから、ジュディスは、「また始まった」とうんざりしてしまったのです。
親に感謝するようにと子どもに言うこと自体は、悪いことではありません。このお母さんは、娘の送り迎えの車の中で、はっきりこう言えばよかったのです。
「毎日車で送り迎えしてるお母さんに感謝してね」
お母さんは、自分の子ども時代の話をして、もってまわった言い方をする必要はなかったのです。もちろん、子どもが思ったように親に感謝するとはかぎらないでしょう。しかし、自分の気持ちをはっきり子どもに伝えるほうが、変に愚痴をこぼすよりもずっといいのは言うまでもありません。

子どもは、どんな時に親の同情を引こうとするのか

子どもは、親にかまってもらいたくて、同情を引こうとすることがあります。
「お腹が痛い」
四歳のトレーシーは言いました。朝、保育園へ行く間際になってこんなことを言い出したのです。
「行きたくない」。トレーシーは、お腹を押さえました。
こんな時、親は迷います。この子は本当にお腹が痛いのか、家で寝かせておくべきなのか、医者に連れていったほうがいいのか――。もしかしたら、保育園へ行きたくないから嘘をついているのかもしれない。それとも、親に甘えたいのだろうか? 家で一日のんびりさせてやるべきなのだろうか……。
親はどれか一つ答えを出さなくてはなりません。そんな時、いちばん大切なことは、親の同情を引けばわがままをとおせるのだと子どもに思わせないように注意することです。
もし、学校に行きたくないために仮病を使っているようならば、次のように尋ねてみるといいでしょう。
「学校に行ったら、どうなっちゃうと思うの?」
「家でどうしていたいの?」
「本当はどうだったら一番よかったの?」
「どうすれば、そういうふうにできると思う?」

子どもが仮病をつかっていた場合、こんな親の問いかけに答えてゆくうちに、子どもは、自分が本当はどうしたいのかが自覚できるようになります。親も、子どもとの対話をとおして、子どもの状態をつかむことができます。子どもは、親にかまってほしくて仮病を使うこともあります。そんなときには、最近、子どもにどう接していたかを思い返してみてください。もし、忙しくて余裕がなかったのなら、子どもとの時間を増やすように心がけてほしいのです。
また、子どもは、「自分にはできない」と言って、親の同情を引こうとすることもあります。「自分にはできない」という言葉は、究極の言い訳になります。「そんなことを要求されても困る。自分にはできないのだから」と子どもは言っているわけです。けれど、本当のところは、子どもはできないのではなく、やる気がないから、あるいはやりたくないから、こういうことを言う場合があるのです。
この手にのってしまったら、「自分にはできない。自分には能力がない」という子どもの言い分を、親は受け入れたことになってしまいます。こんな後ろ向きの姿勢を、子どもに取ってほしくはありませんね。子どもを励まし、なんとかやる気をおこさせたいものです。子どもがコンプレックスを感じているのだとしたら、子どもの話をよく聞き、どうしたら前向きになれるかを子どもと一緒に考えることです。
八歳のベンは、算数の宿題にうんざりしていました。ベンはべそをかいて言いました。
「できない。こんな難しい問題、ぼくにはできないよ」
ベンのお父さんは、そんな息子の気持ちが分かりました。けれど、泣き言は聞かずに、こう励ましたのです。
「一年生の時も算数ができなくて、大変だったよね。でも、先生に聞きに行ったり、お父さんといっしょに勉強したりして、それで、できるようになったじゃないか。だから、今だって、できるよ。さあ、もう一度やってみよう」
子どもがしょげている時には、親もついかわいそうに思ってしまうものです。しかし、親も子どもと一緒にしょげていたら、子どもはますますやる気を失ってしまいます。もし、べンのお父さんが、「そうか、この問題は難しいからな。もういいから、寝なさい」と言っていたらどうだったでしょう。ベンはあきらめてしまったに違いありません。自分は算数ができないのだというコンプレックスをそのまま引きずることになってしまったことでしょう。
大事なのは、子どもが「もう一度やってみよう」と思えるように、チャンスを与えることです。親の自分が苦手なことは、子どもも苦手なんだと思い込まないように気をつけてください。もし、ベンのお父さんが算数が苦手だった場合には、ベンにもつい甘くなっていたことでしょう。しかし、それでは、子どものためにはなりません。親の役目は、子どもを励まし、導きながら、埋もれている能力を引き出すことなのです。
子どもが何かをできずに困っているとき、親はどこまで子どもに手を貸したらよいのでしょうか。それはなかなか微妙な問題です。手助けしすぎて、かえってよくないこともあります。子どもに自力でやらせて、自信をつけさせるべき時もあるのです。また、場合によっては、親の助けが必要な時もあるでしょう。その時その時の子どもの状態を、親はよく見極めたいものです。一番いいのは、最初にアドバイスを与え、手助けをしておいて、後は子どもに任せることです。子どもが自力でやり遂げられるように見守ることが大事なのです。
いつ、どんなふうに、どれだけ手を貸したらいいのか、親はそれを判断しなくてはなりません。親の助けがどれだけ必要かは、子どもの年齢とともに変わります。三歳の子に必要な助けも、五歳の子には邪魔になるでしょう。子どもを励まし、必要な時にだけ手を差し伸べることが大切です。子どもは自分で苦労してこそ新しいことを身につけてゆくのだ、ということを忘れないでください。

逆境に立ち向かう力

 ここで、同情ということについて考えてみましょう。わたしたちは、かわいそうな人に同情します。しかし、どんなに相手に同情したとしても、それでその人のためになるか、その人の役に立つかといったら、それはどうでしょうか。なぜなら、同情とは、相手と距離をおく感情だからです。わたしたちは、かわいそうな人に同情することによって、自分はそんな目に遭わなくてよかったと心のどこかで優越感に浸っているのです。
一方、共感はどうでしょうか。共感とは、相手に近づこうとする感情です。共感するとは、相手の苦しみや悲しみをわが身のこととして感じることです。共感とは、思いやりの感情であり、相手のために何ができるかを考える心の動きです。
悲劇に見舞われた人が、勇気をもって逆境に立ち向かう姿は、わたしたちの胸を打ちます。人間は、土壇場で驚くべき力を発揮します。たとえば、体の不自由な子どもは、逆に、強く生きていくことのすばらしさを親に教えてくれます。不治の病にかかった子どもは、勇敢に病と戦います。時には挫けそうになっても、へこたれることはないのです。
十歳のスーは、末期癌でした。病院の小児癌病棟から学校に通っています。長かったブロンドの髪はすべて抜け落ちてしまいました。けれども、スーは、部屋に閉じこもって泣き暮らしたりはしませんでした。家族に助けられながら、十歳の女の子が送る普通の生活を、できるかぎり続けたのです。頭にスカーフを巻いて学校へ通い続けました。宿題をこなし、友だちと遊びました。
寝たきりになる前には、クラス全員の友だちを招いて、パーティーを開きました。それは、すばらしい一日になりました。
パーティーで、クラスの子どもたちは、スーを追いかけ回して鬼ごっこに夢中になりました。もしクラスの子どもたちが、スーに同情していたらどうだったでしょう。スーはこんなふうに楽しく鬼ごっこをして遊ぶことはできなかったに違いありません。子どもたちがスーと一緒に鬼ごっこをしたのは、スーの病気のことを知らなかったからではありませんでした。スーのことを考えていなかったわけでもなかったのです。子どもたちは先生と話し合って、スーのために何ができるかを考えたのです。スーが不治の病であり、余命いくばくもないのだということも、子どもたちは理解していました。だからこそ、鬼ごっこにスーを入れたのです。単にスーに同情していただけだったら、激しい遊びからスーを外していたことでしょう。

同情するのではなく、一緒に考える

 ある日、十歳のジャニスは、お母さんの脇へ倒れこむようにして居間のソファーに座りました。
「あたしだけ、メリッサのパーティーに呼ばれなかったの」
お母さんは、がっかりしている娘の気持ちが分かりました。それで、肩を抱きながらこう尋ねました。
「呼ばれなかったのは、本当にジャニスだけ?」
ジャニスは小さな声で答えました。
「他にもいたけど……」
お母さんは尋ねました。
「かわりに何をしたい?」
「家で落ち込んでる」
ジャニスはそんなふうに答えました。半分は本気、半分はお母さんの反応を見ながら。そんなジャニスに、お母さんは、なだめるようなことは何も言いませんでした。
ジャニスは言いました。
「ねえ、お母さん。呼ばれなかったお友だちを家に呼んで、お泊り会をしてもいい?」
お母さんは答えました。
「それは、いいわね。みんなで、クッキーを焼いたらどう? きっと楽しいわよ」
子どもががっかりしているときには、親は子どもを導き、よい方向に向けるように手助けしてほしいと思います。子どもの気持ちを聞き、適切なアドバイスを与えながら、子どもが自分で解決策を見つけだせるようにするのです。
いやなことや悲しいことがあったとき、いつまでも自己憐欄にひたっていてもしかたがありません。どうしたら前向きになれるか、そんな力を持つことができるように親は子どもを導いてゆきたいものです。「あなたならできる」と子どもを信じれば、子どももそう信じることができます。子どもを信じ、励ますことは、子どもに同情することよりも、ずっと大切なことなのです。

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